語学の勉強法をあらゆる角度から

第一問 翻訳をすると語学の実力がつくでしようか?

つかないでしょう。日本語の言い回しは上手になるかも知れませんが,外国語そのものは割合進歩しません。(厳密を期するために,少し別ないい方をするとすれば:「翻訳することによってつくような語学の実力は,それはまだ本当の語学の実力ではない」といってもよいでしょう。もしこの解答が腑におちかねる点があったら,いわゆる反訳家といったような筋の人たちに訊いて下さい。)

第二問 辞書は,独和など使うよりは,やはりなるべく独独を使うべきでしようか?

独独を使って充分わかるようになったら,もちろんそれに越したことはありますまい。一語をしらべながら同時に多くの語に接するわけですからね。しかし,そこまで行くのはなかなか大変です。また,引こうとする語の種類によっては,独和の方がずっと精確だということもあります。たとえば Ladenhüter(たなざらし),Diabetes(糖尿病),Einheit(単位),Eierpflanze(茄子),schieben(横ながし)など。

第三問 作文が重要だということは充分みとめますが,われわれには作文を練習する方法がありません。自分だけでデタラメに作ってみたところで,それは反って間違ったことをおぼえてしまう位のもので,誤を訂正してくれる人がなければ駄目ですね?先生といえども,作文となると,うっかりした先生には信用がならない気がします。そうかといって,外人につくなどということは,誰にもそうやたらにできることではありません。どうしたらよいでしよう?

独文をまず日本語にお直しなさい。そして,忘れた頃に,その日本語をもとの独文に直してごらんなさい。これを「逆文」と申します。不自然な作文よりは自然な逆文の方がずっと効果的です。

第四問 会話の練習のために西洋人につくということはどうでしよう?

つける人は勿論つくべきでしょう。けれども,欲を言うならば,あなたがお金を出して西洋人につくよりは,むしろ西洋人の方がお金を出してあなたにつくべきでしょう。—– 奇論をよしてわかり易く申しますならば,西洋人の個人教授を受けるということは,あなたがよほど上手に相手の先生を引っぱり回さない限り,どうも大抵「話の種」が切れてしまって,長つづきはしないものです。それに反して,何かどうしても意思を通じ合わなくてはならないような具体的な問題があなたと西洋人との間にしょっちゅう続発してくるような関係に立つというと,会話は否でも応でも上達せざるを得ません。だから,会話に上達したいとお思いになったら,まず相当の実力を蓄えたのち,何等かの機会を作って,相手が「これは重宝な男だ,利用してやれ……」とあなたに注目するようにお立ち回りなさい。これより以外に,もし何等かの上達法があったら,私は……焼ちゅうを五分間に一升飲んでみせます。

第五問 音盤を利用することは有効ですか?

有効です。但しこれには甚だ痛い条件が一つつきます。それは,音盤を本当に自分一人だけで使うことです。高価なものだから,これは甚だ痛い条件かも知れませんが,この条件でないと絶対にダメです。学校で買ったのをほんのたまに一寸きかせてもらったり,友人のを一寸貸してもらって一二週間聞いたりしたのでは,絶対に効果がありません。ラジオできくのも同様です。—– 自分の部屋にそなえつけて,毎日毎日きいて,ほとんど全部を暗記して,たとえばマア例の「のど自慢」にでも出られるくらいに,流行歌のように練習してごらんなさい。非常な効果です。

第六問 単語帳や単語カードは効き目がありますか?

あんまりないでしょうね。—– 自分で単語帳を作ってみるということは,それをタンネンに書く時の効果だけはあるでしよう。あとは,たいてい風呂にもしてしまうものです。燃された単語は大抵の場合煙突を通って屋根から外へ出てしまうとしたもので,単語が熱と共に風呂釜を貫いて浸透し,それからあなたの膚にしみ込んで大脳にまで達する……ということはまだ科学的に立証されていません。

第七問 読破力をつけるには,短かいものを多く読むべきでしょうか,それとも一つの長い書物にあくまでも喰いさがっていくべきでしょうか?

私自身の経験からいうと,長いものをつづけて読む方が実力がつくと思います。もちろん,書物には,文体の上から言っても,取扱われている問題から言っても,みなそれぞれ偏した固有癖があります。ある小説では,ある種の事ばかり出てきて,他の種のことは出てこない,ある論文では,ある一定の用語ばかり出てきて,それ以外のことはちっとも出てこない……といったようにです。これは一つの欠陥であると同時に,また一面に於ては,語学学習者にとってはモッケもない絶好の進出チャンスを提供するものであり,いわば,さながら,ブラジルの密林にわけ入るために自然が作っておいてくれたアマゾン河にも似たところがあります。アマゾン河というものがあるのに,何を好んでわざわざ密林をわけて奥地に進む必要がありましょう? —– というのは即ち,こういう意味です。たとえどんなむつかしい書物でも,最初の五十頁をよく読めば,あとは不思議なほどよくわかり出します。難儀は最初の五十頁にあるのです。つまり,その作家,その文体,その用語,その話の筋,その扱ってある問題,その特殊な語法に慣れるのに暇がかかるのです。(初学者は往々にしてこの難関を語学一般の難関と混同して考えがちです)それに慣れてしまえば,こんどは,その逆の現象が起ってきます。すなわち,その書の固有癖に慣れて,「その書」がわかり易くなったということのために,学習者は這般の問題を混同して,「そもそもドイツ語というものが」わかり易くなった様な錯覚を起してしまうのです。そして,この(本当はチョットよくない)錯覚のために,かれの読破力は破竹の勢を以て進歩します。進歩というよりはむしろ「上すべり」してしまうのです。しかもこの「上すべり」は非常によい「上すべり」で,この「上すべり」と,この錯覚がなかったら語学は絶対に進歩しません。知識は得られるかも知れませんが,力はちっともつきません。語学の底力,語学の実力というやつは,知識や明確な認識とは一寸別物です。

第八問 講習会に出たりするよりは独学の方がよいでしようか?講習会や教室の語学をどうお考えになりますか?

講習会とか,教室とか,読書会とか,輪講とか,研究会とかいったものには,おのずからその利害得失があります。どんな利害得失があるかというと,それらはすべて多勢の人,或いは数人の相手と共にやることですから,すべての「社交機関」に共通な利害得失を持っているのです。—– 誰しも自分の経験に問うてみればほぼわかることですが,いったい人間というやつは,一人きりで何かやるときの頭の働き方と,相手がある時の頭の働き方との間には「種類」の相違があります。人の話を聞いたり,自分でも喋舌ったりしている時(即ち対人関係)には,或種の事柄に対しては非常に敏感になって,ひとりきりの時には考えもつかないような好い事を考えることがありますが,また,他の成種の事柄に対しては恐ろしく鈍感になってしまって,一人きりなら当然気がつく筈の簡単なことが急には思い出せないなんてことがあります。それと逆に,一人きりで机に向っているときには,或種の事柄に対しては非常に綿密に頭が働きますが,他の或種の事柄に対しては,まるで低能児かなにかのように,スッテンとぬけていて,肝心なことをすっかり忘れているということがあります。—– これを要するに,対人関係の中に入って(教室などで)勉強するということは,ヒントを授けられたり,刺激を受けたり,或種の問題を明確に考えたり,視野をひろげたりするにはもってこいですが,真の意味における実力を養成するには甚だ適しません。真の意味における実力を養成するのは,何といっても,やはり,独学です。ひとりでムッと意識を集中して,多少独善的になってもよい,多少独断に陷入ってもよい,とにかく馬車馬のように,左右に目かくしをつけて,盲目的に猪突前進することです。これをやらない人にとっては,教室の授業は大した指導にならないでしょう。これをやる人にとってはじめて教室は不可測の威力を発揮するでしょう。—– 独学は地上軍のごとく,教室ガイダンスは空軍のごとし。進歩した現代の軍備が空軍を持たないというのは重大な欠陥でしょう。しかし第二次大戦の経験によると,空軍だけでは絶対に敵国を攻め取ることはできません。やはり,速力のおそい地上軍が多大の犠牲をうけつつ,一歩一歩と敵を追いつめていってはじめて敵国を制することができるのです。

第九問 文法というものは,どの程度まで必要なのでしょう?殊にドイツ語をやる者は,文法というものを非常に重要視する傾向があるようですが,これははたして正しい考え方でしようか?

「文法がわからなければドイツ語は全然わかるわけがない —– 文法がわかったところで,それでドイツ語がわかったわけではない」—– まずこんなことになるでしょう。よく噛みしめて考えて下さい。

第十問 自分の学力の程度よりも少しむつかしい位のものに噛りついて,小野道風式に,わかるまで根気強くねばりついた方がよいでしょうか,或いは,自分の学力より下のものを楽楽と沢山やった方がよいでしょうか?両者ともその特長があるように考えられますが……?

お説の通り,一得一失です。その人の性格によってきまるでしょう。どちらが自分に向くか,ということを,よく判断する必要があります。この判断は, なんでもないようで,当事者自身の内部からはなかなかむつかしい問題です。私が只今までに見てきたところでは,三人に一人,あるいは悪くすると二人に一人位の割で,この判断を誤っている人を見受けます。そんなむつかしいものを机の上に置いて,ムツカシイ顔をして,眼を充血させて,便秘したり溜息したりしながら停頓していなくても,もっとやさしい物をドンドンと読んだ方が性に合ってもおり,また進歩も早いだろうに,と思われるような人にかぎって,何かへンな野心にこだわって,本人と書物とを見くらべると思わず失笑を禁じ得ないような,トテツもないむつかしい物と四つに組んで(死闘しているならよいが)居眠りしている……そうかと思うと,もうこれくらい出来る人なら,ちっとは野心を振るい起こして,何かモットむつかしいものと取っ組んで,今まで知らなかった全然の別天地に身を置き移したら,我れと我が実力を見なおして,そこにもたらされた新境地のために,生まれ変ったようなスガスガしい気持がして,また改めて人生が生き甲斐あるものとなるだろうに……と思われるような人にかぎって,いつまでも自分の気持の情性に引きずられて,現在の自分に充分わかることにだけしか興味が向かず,少しでもむつかしいものに対しては本能的な反感を抱き,その結果として或種の独善的な心境に陥入り,その為に折角の勉強が何の効果ももたらさずにいるといったような人も見かけます。—– とにかく人間というやつは,何が本当に自分の為になるか,現在の自分には何が最も促進的であるか,ということに対しては,いわば積極的に心を閉ざさんとする傾向があるのです。(アラン・ポーは,この一つの面白い場合を The imp of the perverse 「よこしまのまがつみ」〔とでも訳しますか〕と名づけて,同じ題の短編で隨筆風に鋭く描写しています。) —– 以上は念のために申しあげたのですから,よく内省すると同時に,常識的立場から自分自身の振舞いを客観的に批判して下さい。—– ごく一般的に申しますと,初学者はなるべくやさしいものを多量に読んで勇気と自信をつける方が順序です。あんまりむつかしいものに喰らいついて,停滞してしまうことは,よくありません。密林をかき分けて,いばらに引っかかったり,毒蛇にかまれて三ヶ月入院したりするよりは,坦々たる国道をテクテク一ケ月歩いて回り道した方が結局は時間の経済かもしれませんからね。—– 但し,これには一つの例外があります。それは, 前出の第七問に対する解答で申し上げた,一つの長い書物にあくまでも食い下がって行く場合です。この場合は,あなたの性に向こうと向くまいと,とにかく遮二無二,むつかしい密林を突破しなければなりません。自分の実力とは不相応な,なんなら一行に出てくる単語の九割まで辞引で引きながら,今日は一行,明日は二行,とこの段違いの相手と四つに組んで何ヶ月でも頑張らなければなりません。

第十一問 私は少し欲の深い方で,ドイツ語以外に,英語も,できることなら仏語もやりたいと思います。ただその方法なんですが,若い時から多少たりとも平行して三語をやる方がよいでしょうか,或いはやはりドイツ語だけに専念して,これを相当マスターした後に英仏にとりかかった方がよいでしょうか?

御質問の趣旨はよくわかりますが,そこには,あなた御自身がまだよく気がついておいでにならない多くの根本問題が錯綜していて,なかなか厄介です。—– たとえば,あなたは,ドイツ語以外に英仏をマスターしたいと仰言いますが,マスターするというのは,どんなマスターのし方のことをお考えになっての上での話ですか?もしそれが,新聞が読めたり,手紙が書けたり,会話が出来たりする程度のマスターでしたら,また,英佛語とドイツ語を同程度に翻訳ができるという程度のマスターでしたら,この方は解答は割合カンタンです。但し,あなたの生活力の旺盛さとあなたの素質とを知っての上でないと,一般的には,チョット責任を以てはお答えし兼ねます。—– けれども,一般的に言えることは,ゴク月並なことではありますが,やはり「うっかりするとアプ蜂とらずになるぞ」……ということ,或いは,「二兎を追うものは一兎をも得ず」ということです。月並みではあるが,これは永遠の真理です。—– ただしこれにも但し書はつきます,すなわち,もしあなたが非常に精力の旺盛な(というのは精神力のことです,体力には大して関係しません)人だったら,これはまたチョット話がちがってきます。また,精神力の旺盛な人に対しては,ドチラを先にやった方がいいかなどという問題に対しては解答する必要を認めません。何から先にやろうと,そんなことはどうでもいい問題で,ただとにかくやりさえすればよいでしょう。また,やるなと言っても,やるでしょう。

(終)
(1952年7月)

底本:荒木茂男・真鍋良一・藤田栄 編集「関口存男の生涯と業績」(三修社・1967年)