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ちょっと次の単語を比較して考えてみましょう:

iron Eisenイゼン, n.
hare Haseーゼ, m.
was warヴァール あった
freeze frierenフリーレン 氷る
lose ver-lier-renフェルーレン 失う
choose kürenューレン えらぶ

「氷る」の三要形は英の freeze, froze, frozen に対して独は frieren, fror, gefroren;「失う」は英の lose, lost, lost に対して独は verlieren, vorlor, verloren (英語の方でも forlorn [=verloren] 見捨てられた,寄るべなき,という形容詞が残っています);「えらぶ」は英の choose, chose, chosen に対して独では kiesen (あるいは küren),kor, gekoren です。

すべて英の s が独では r になっているという不思議な現象がみうけられます。これはどうしたことでしょうか? p が f になったり,k が ch になったりするのは発音の自然ですが,r と s はずいぶんちがった音ではないでしょうか?

これは,アーリアン系の言語では到る所に見受けられる特殊現象で,学者はこれを Rhotazismus [ロタィスムス] と呼んでいます。どういうことかというと,西洋の昔の言葉では,s をなめらかに発音するとき(即ち次に母音か,或いは d, g, b といったような濁音,その他響きの豊富な音が来るとき)にば r に変えるという特癖です。たとえば,サンスクリッ卜(即ち梵語)では,これが一つの文法上の規則となっています。梵語で「詩人」のことを kavi と云い,その一格,即ち「詩人は」は kavis ですが,そのうしろに響きの豊かな a とか o とか b とか g とか v が来ると kavis ではいけなくて kavir となります:

kavir vadati      詩人は云う。

しかし,次に t が来ると s を用います:

kavis tathā vadati      詩人は斯く云う。

次になにも来ないと s は h という,ドイツ語の ch のような音になります:

tathā vadati kavih      斯く云う,詩人は

実に厄介だが,これが梵語の音則です。ラテン語でも,音則というほどではないが,ある種の語,たとえば「口(くち)」という os は,二格になって「口の」となると,sr に変えて,その上に二格語尾 is を附して oris といいます。沢山ではないがそんな語が若干見うけられるのです。

s と r とが,そんなに近い音であったかどうかは,昔のことゆえそうはっきりとはわかりません。しかし,国語には各々その特癖(いわゆる Idiosynkrasie)があって,他国人には不自然でも,その国の人間には自然に思われるということがあるものです。現に日本語でも,ka が濁って ga になったり,sa が濁って za になったりするのと同じように,ha が濁って ba になると大真面目で信じています。だから青い葉 (ha) のことを aoba というのです。ところが,これは外人にはまったく不自然に思われる音則で,pa が濁って ba になるというのは自然の法則ですが,h と b との間には別に何の関係もなく,その間になにか関係があるように思っているのは日本人だけなのです。しかしこれが日本語の音則だからやむを得ません。s と r との間の関係も,つまりはこうしたアーリアン系民族だけの間において自然であった音則なのでしょう。