文章論序説

文章 (Satz)

狭い意味で文章というと,要するに「何がどうする」又は「何がどうである」という形式で言い表わしたものを言います。だから die Landung des Flugzeugs (飛行機の着陸)は文章ではない。Das Flugzeug landet. (飛行機が着陸する)とか Das Flugzeug landete. (飛行機が着陸した)とか何とかいったような事にならないと文章とは言われない。

読者 では,「どうも一向仕事がめっからない」という意味で Keine Arbeit ! と言う時には Keine Arbeit は文章ではないのですか?

筆者 文章じゃありません。

読者 いやにアッサリしてますね。本当に文章じゃありませんか。

筆者 断然文章じゃありません。文章「として」用いてあるものが文章だと言えますか?「として」という日本語がおわかりになりますか?

読者 まるで哲学の現象学の議論みたいですな。

筆者 だって理屈というのは,言わなきゃいっそ言わない方がいい,言い出したからには言ってしまう方がいいじゃありませんか。

読者 じゃあまあようがす。

定形動詞
verbum finitum

すると,文章が文章たる所以は形式としては何に現れるか? —– 形式としては動詞に現われるという事になります。では動詞にどういう風に現われるか?それは,動詞がいわゆる人称変化をした形をとるという点に現われると言っていいでしょう。—– しかし,そんな事を言わなくても,人称変化をした形の動詞のことを普通 verbum finitum(定形動詞,略して定形,又は定動詞)と言っているからそれを含んでいるのが文章だと言えばよろしい。すなわち,wir haben (我々は持つ)と言う際の haben は定形動詞であって,「不定形」の haben とは違う,といったようなことが言われるわけです。その他,landen (着陸する,上陸する)は不定形だが,ich landete (私は着陸した)と言えば,その landete は定形動詞です。英語では,定形を不定形から区別する特徴が非常に少い,なぞということが言われます。

verbum finitum [ヴェルブム・フィニートゥム] というのはラテン語です。英語では finite verb,ドイツ語では finites Verb とも言いますが,文法の用語という奴は大抵古典語の脚註をラテン語で書いた当時のをそのまま用いることが多いから,verbum finitum と言った方が日本人としてはいいように思われます。その他に Redeform ということも言います。「文章の形をなすもの」の意です。ほんとうはこの方がずっといいのですが,一般にあまり知られていないのが残念です。

主語 (Subjekt)

定形動詞と言えば,まずそれにはすぐ主語というものが考えられる。ドイツ語(のみならず西洋語)は,日本語とは違って,主語というものが非常にやかましくて,主語を省くといったようなことは滅多にない。省く場合は省く場合で,別に数個の例外を造っています。—– しかしまあ主語が何かといったような事は別に説明する必要もないでしょう。

補足語 (Ergänzung)
または目的語

ところが,主語と定形動詞とのみでは意味をなさない場合が起って来る。例えば er brachte (彼は持って来た)では,「何を」持って来たのだかわからない。bringen という以上は「何かを」が付きもので,それを補足して始めて意味が一貫する。本当を言うと er brachte etwas だけでも少し足りない。「誰に」ということがドイツ語では要るものです。Er brachte mir eine Nachricht. (彼は私のところへ報せをもってきた)これが普通の使い方です。こういう時には,bringen (もたらす), geben (与える), schenken (贈る), schicken (送る)なぞは,三格の補足語と四格の補足語を要求(又は支配)すると言います。

補足語を要求しないものもあります。er starb (彼は死んだ)と言えば,別に何をとも考えない。それだけで一つの意味をなしている。これを「純自動詞」と言います。—– 時には,日本語でなら当然四格で考えそうなものを,四格で言わないで,前置詞を用いる補足語を取るものもあります。「彼は時計を見た」は er sah die Uhr ではなくて er sah auf die Uhr です。「彼は受話器を手に取った」は,「手」を入れれば勿論 er nahm den Hörer in die Hand でよろしいが,それでは何だかこれから受話器を検査しようとするのか,それとも田舎者のように恐る恐る手に取るような風に思われるかも知れないから,これから電話を掛けようという意気を示すには greifen (つかむ)を用いた方がよいが,er griff den Hörer とは言わない,er griff zum Hörer 又は er griff nach dem Hörer と言う。すなわち補足語には zu (……に)とか nach (……の方に向って)とかいう前置詞を付けるわけです。

読者 一寸待って下さい。すると何ですね,er ging zur Schule (彼は学校へ行った)でも,zur Schule は補足語ですか?

筆者 冗談言っちゃあいけない。そんな事を言い出した日には補足語というのが一たい何の事だかわからなくなってしまう。そんな訳じゃありません。

読者 だって zur Schule は gehen という動作に対する当然の補足じゃありませんか。

筆者 じゃあ,er ging sofort zur Schule (彼はすぐ学校へ往った)の sofort も補足語だということになってきます。だって「補足」してますからね。意を補い足しているじゃありませんか。

読者 sofort も補足語でいいでしょう。

筆者 そう勝手に決めちゃいかん。古来の習慣として何を補足語と呼び慣らしているかということが目下の問題なのであって,「補足」という日本語で如何なる可能なる連想が脳裡にうかぶかということを研究しているわけじゃありませんよ。今までの習慣では sofort なんてものは補足語という名称では呼んでいないのです。zur Schule も同様です。

読者 すると私にはその補足語という意味がよくわかりませんね。

筆者 補足語というのは少し言葉がわるいかも知れない。では「目的語」とも言うから,この方なら合点が行くでしょう。もっとわかり易く言えば,極く自然な物の考え方として,日本語でなら「……を」「……に」といったようなものを入れないとおさまりの付かない動詞がある。その際の「……を」「……に」を補足語というのです。—– 日本語を離れてドイツ語の感じで考えて頂けるともっと話が簡単になる。即ち,「補足語は普通は省き得ない,たとえ日本語では省いても,代名詞として必ず入れる」と言えばその特徴がはっきりとわかります。たとえば,日本語でなら「彼は一冊の本を買って弟にやった」だが,ドイツ語ではそこがやかましくて,彼は一冊の本を買って,そして「それを」弟にやった,と言わないといけない。すなわち

  Er kaufte ein Buch und schenkte seinem Bruder.

は誤で,

  Er kaufte ein Buch und schenkte es seinem Bruder.

と,とにかく義理にも es が要る。義理にも要るほどの重要なものが,これが補足語です。—– 論理的,心理的に説明すると厄介なことになるが,極くわかり易く言えばまあこうです。

読者 でも Wer schenckt, fodert. (贈る者は要求す)なんてのはどうです。「贈る」も「要求す」も両方とも他動詞だから,義理にも四格が要る筈だのに入っていませんね?しかもいいドイツ語ですね。

筆者 そういう場合にはわざわざ省くのです。「わざわざ」という日本語がおわかりですか?

読者 また現象学が始まった。

筆者 じゃあ語学で行きましょう。Wer schenkt, fordet. は,野暮に言えば Wer etwas schenkt, fordet etwas. すなわち,人に物をやるにも,ただではやらない,下心がある,期待がある,御志はありがたいが,覚し召しがおそろしいという,あいつですな。つまり etwas とか,einen (或人を,吾人を)einem (或人に,吾人に)とかいったような,別に何とも誰とも決まらないものを不定代名詞と言いますが,不定代名詞の場合にはわざわざ省いた方が面白いのです。

読者 「愛は奪う」なんてのがそれですな。

筆者 それそれ。そんなによくわかったじゃありませんか。これを称して他動詞の絶対用法又は自足用法といって,西洋語間には特に多い。「愛は奪う」なんてのは,意識して西洋語の真似をしたのです。一たい西洋語の文法の真似をすると金が儲かりますよ。「何が彼女をそうさせたか」なんてね。

読者 その場合「そう」というのを省いてはいけませんか?

筆者 すると「何が彼女を……」,馬鹿な!余計なことを言う!

目的 [述語]
Prädikat

次に一つ非常に重要なものを紹介します。こいつがわかっていないと文章論の理屈を聞く時に非常に困る。—– 例によって,一寸間違いそうな例を取って話しましょう。

何も知らない人に,たとえば「あいつはリーダーになった」をドイツ語で言わせると,「リーダーに」の「に」に拘泥して

  Er wurde dem Anführer.

なぞという。これは間違いです。どこが間違っているかというと,dem Anführer がいけない。

  Er wurde zum Anführer.

或いは—–

  Er wurde Anführer.

でなければいけない。Er wurde Anführer の Anführer は一格です。すなわち,werden (なる)という動詞は補足語を要求しないで,客語というものを要求する。(後で述べますが,客語は間違い易いから,本当は述語と言った方がいいと思います)。

もっとハッキリ言うと,補足語には一格がないのです。まあ一格の補足語があると考えても,便宜上でならよろしいが,その「一格の補足語」のことを特に「客語」又は「述語」と言うと思ってよろしい。

述語を要求する動詞の最も重要なものは sein (……である)という動詞です。たとえば Er ist Beamter. (彼は官吏だ)と言えば,Er が主語で,Beamter は,その主語に対する述語又は客語です。ist という代りに数学の記号を使って Er = Beamter と考えてもいい。要するに $a = b$ という関係が存する時に,$a$ を主語と言い $b$ を述語と言うのです。ただ数学とちがうのは,数学では $a = b$ なら $b = a$ も真だが,文法の主語述語関係は必ずしもそうではない。これはまあ論理の範囲で扱う問題ですが。

Er wurder Anführer の例に帰って話すと,この werden という動詞も,まず sein と同じような意味を持っている。 Er wurde Anführer は Er war Anführer とも言います。決して「かつて指導者であった」ではなく,「彼は忽ちにして指導者であった」すなわち指導者に「なった」と言うのと同じです。「忽ちにして何とかである」ことを werden(成る)と言うので,ドイツ人の心理では werden と sein とは,そう大して変らないのです。—– だから,逆に言うと,sein の場合をどうしても「成る」で訳さないといけない事が盛に起って来る。Jetzt bin ich dein Vorgesetzter. を,「今は私はお前の上役だ」なぞと言うと飛んだ誤訳になることがある。「さあ俺はお前の上役になったぞ」と言わなければ意味を成さない場合がある。この二つの解釈は全然ちがった二つの意味のように思われるが,ドイツ人はそんな区別はしないのです。

述語を要求する動詞の主なものに,もう一つ bleiben というのがある。bleiben は「とどまる」ではなく,「依然として何とかである」(「何とかであることを止めない」)ことで,要するに,「依然として」という色彩さえ除けて考えれば sein と同じです。たとえば「あいつは何でも知っている」(嗅ぎ出す)というのを,ドイツ語では「何一つとして彼には秘密のままで止まらない」(Nichts bleibt ihm ein Geheimnis.) と言います。つまり Nichts ist ihm ein Geheimnis. (何一つとして彼にとっては秘密ではない)と言うのと同じです。ただそういう時にはあんまり ist を用いない。sein は用途が非常に多くて,使い出せばきりがないから,ドイツ語ではその主な代用物が二つ(werden, bleiben) あって,或種の場合にはそれを用いて,単なる ist や sind に多少の色気をつけるというわけです。

形容詞の述語

こういう事を知らないと,最初に例にあげた「彼は指導者になった」の「指導者に」をどうして三格にしないのだろうかといったような疑問を起します。述語と補足語とは決して混同してはいけません。述語の特徴は,一格であるということの外にこう思っていればわかります。即ち,「補足語は形容詞をもって代用できないが,述語は形容詞で代用できる」—–

たとえば Nichts bleibt ihm ein Geheimnis. の ein Geheimnis の代りに,verborgen (隠れたる)なんて形容詞を用いたってちっとも違いはない。

  Nichts bleibt ihm verborgen.

また er wurde Anführer の代りに er wurde tonangebend (彼は「音頭取り的」になった)と言ってもいい筈です。これらは ist と同じで,Er ist jung. (彼は若い)は Er ist ein Jüngling. (彼は若人である)と同じですからね。

ところが補足語は形容詞で言い換えるわけにゆかない。Er besuchte seinen Mitarbeiter. (彼は彼の協同者を訪問した)の seinen Mitarbeiter をどう形容詞で言い廻しますか?それは不可能です。

そこでこう言う事も言える。即ち,述語というのは,名詞を一寸まあ形容詞のように用いる時の用法です。

繋詞 (Kopula)

ist や sind すなわち,要するに sein (……である)という動詞の「定形動詞」のことを,$a = b$ という関係の $=$ と見て,Kopula (繋詞)と呼ぶことがあります。 —– Ich bin ein glücklicher Mensch gewesen. (私は幸福な人間であった)という際でも,bin と gewesen とを区別するために bin が Kopula であると言って構いません。

ついでに一寸ことわって置きますが,Ich habe ihn gesehen. と言う際の habe まで Kopula と呼ぶ人がいるが,これは飛んでもない間違いです。この際は,「主語と述語」との間をつなぐのでないから,特にその関係を言い表わす言葉が要るなら他に別に造るのがいいので,Kopula というのはどうも変です,「繋いで」なんぞいないからです。—– しかしそれはまあ専門的になるから止します。

客語という術語
に就ての注意

文法と論理学とは不即不離の関係にあると同時に,うっかりするとその混同が起ります。論理学的文法を奉ずる人たちは,たとえば,「文章」は必ず「命題」だと言う。(ドイツ語では両方とも Satz で,これがそもそも文法と論理との混同の最大原因です)従って Das Flugzeug landet. (飛行機が着陸する)という場合にすら,主語と述語との関係があると言う。即ち Das Flugzeug が主語で,landet が述語(客語)だと言うのです。しかしこれは「論理」であって,「文法」ではありません。論理と文法とでは用語もちがいます。これは初学者を惑わさないように,なんとかしなければならないと思います。勿論 Das Flugzeug landet. は,Das Flugzeug ist landend. という関係をそれ自身の中に蔵してはいるかも知れないが,文法は「表現法」に名を付けるのであって「意味」に名をつけるのではありません。今日のところ,文法学,殊に文章論は,まだ完全に「論理学」から独立しきっていないのですから,初学者は,色々な術語を耳にする時には細心の注意をもって熟考し,まどわされないように御注意をねがいたいものです。