動詞が文章である

生徒 先生,少し理屈が言ってみたくなりました。

教師 よし,はやく行って来い。

生徒 何処へですか?

教師 便所へさ。

生徒 どうしてですか?

教師 少し小便が出たくなったんだろう?

生徒 そうじゃありません,少し理屈が言ってみたくなったのです。

教師 ああそうか。じゃあ言え。

生徒 今さっき出くわした文章のことですが —–

  Wo wohnen Sie hier in der Stadt ?

  あなたはこの町の何処にお住まいですか?

どうも一つ合点の行かないことがあります。それは hier in der Stadt という奴が「この町の」なんて事になるわけが一寸わかりません。一たいどうしてそういう意味に取れるのでしょう。

教師 それは簡単だ。それはつまりそれを書いた人がそう言うつもりで書いたから,そういう意味に取れるのだ。

生徒 それはどうも少し僕の質問の意味がよく解っておいでにならない様です。僕はそんな事を問うたのではありません。

教師 どんな事を問うたのだ。

生徒 hier in der Stadt は,四つの語から成っています。そしてその各々の意味はよくわかります。というよりはむしろ,hier in der Stadt は二つの部分から成っています。即ち hier と in der Stadt ですね。私には hier もわかり in der Stadt もわかります。しかるに両方合せた hier in der Stadt がわからない。別々になら解るが,両方一緒だと解らないという以上は,これには何かいわれがあるに違いない。しかもそのわけは,hier の方にもない,in der Stadt の方にもない,(如何となれば両方ともよくわかるのですから),かるが故に,この句をして理解困難なる句たらしむる所の所以のものは,hier と in der Stadt との「結合様式」そのものに在ると見るのが妥当である。—– それとも,この難解性のよって以て来るところがその他に何か考えられますか?

教師 (扇子で襟首に風を入れながら)暑い!

生徒 考えられません。断じて考えられません。—– 語句の各各は辞書さえ引けばわかる。辞書を引くには先生は要らない。先生はむしろその結合を説明すべきである。しかるにあなたは先生である。かるが故にあなたは説明しなければならないのである。諸君どうだ!

一同 異議なし!

生徒 先生どうです!

教師 異議なし。

生徒 異議なければ説明して下さい。

教師 説明はしたよ。

生徒 どうして。

教師 hier in der Stadt 全体で「この町で」という意味だと言ったら,それが一番好説明じゃないか。

生徒 しかし,それじゃあ,どうしても合点が行かないと言っているのです。

教師 俺にはどうもその合点が行かないというのが合点が行かないね。

生徒 私にはまた,その合点が行かないと言うのが合点が行かないと言うのが合点が行かないですな。

教師 hier が「ここ」で,in der Stadtが「町で」なら問題はない筈じゃないか。「ここで,町で」すなわち「ここ此の町において」という事だから,それで充分わかるじゃないか。

生徒 ははあ。「ここ此の町において」か。なるほどね。そう言われてみればそういう風にも思えない事もなさそうですね。けれども,どうでしょう,考え様によっては,こういう解釈も許されないでしょうか。hier in der Stadt の in der Stadt が hier にかかっているとは言われませんか?

教師 「かかる」と言うのは一体何のことだ。

生徒 だって,よく「かかる」と言うじゃありませんか。

教師 俺にはその「かかる」がよくわからん。

生徒 かかると言うのは,つまり,引っ掛かっている事です。引っ掛けてあることです。

教師 つまり「関係がある」と言う事かい?

生徒 ……まあそうですね。

教師 関係があると言やあ,勿論関係はあるさ。hier と in der Stadt との間に何の関係もないなんて事はありゃしない。第一,両方で一つのまとまった一句を成しているんだから,勿論両方の間には何か関係があるさ。

生徒 いや……それは少々僕の言い方が悪かったんで……そうですねえ……何と言ったらいいのだか……つまりこうです。先生の説によると hier in der Stadt は,「ここ,この町において」 —– 即ち hier と in der Stadt とは,バラバラになっているわけでしょう?in der Stadt というのは,つまり hier を,もう一度詳しく言い直したわけなんでしょう?僕の言おうとする所がおわかりになりますか?

教師 わかる。

生徒 ところが,その外にこういう考え方もありはしないでしようか。即ち,in der Stadt は hier を言い直したものではなくて,「この町の中におけるここ」即ち in der Stadt が hier に「掛かっている」……

教師 ああ,そういう事を「掛かっている」と言ったのか。それなら始めから早く「この町の中に於けるこの場所で」とは考えられないかと言えば,それで話がわかるのだ。一たい,「掛かる」とか「受ける」とかいう文句はアイマイで,人によって勝手な時に使うから,こういう際にはいっそ理屈を抜きにして,直観的に意志を通じて貰いたいものだね。

生徒 畏りました。ところでどうです,今言ったようには考えられませんか?

教師 考えられないね。だって,それじゃ,だいいち文章の意味がとれないよ。Wo wohnen Sie hier in der Stadt ? (あなたは,ここ此の町のいずれにお住いですか)の hier in der Stadt が「町の中のここで」だったら,第一,既に「ここ」とわかっている上に尚また wo なぞと問わなくったってよさそうなものじゃないか。

生徒 それは僕も一寸おかしいと思ったのです。ではつまり,そういうバラバラの結合法があるのですね。

教師 まあそうだ,そういう結合法があるわけだ。たとえば「この国で」というのを hier zu Lande と言う,大抵は一語に書いて hierzulande で通っている。また,hier 以外の場合もあって,bei uns in Japan と言えば,これもやっぱり「日本における我々のもとに」ではなくて,「我々の許,即ち日本において」という構造だ。こういう構造はドイツ語には非常に多くて,いわゆる副詞的規定の大部分はこういう風に,君のいわゆる「バラバラ」に結合するのだ。次の例を見たまえ。

hier in der Nähe この近くに
dort in der Ecke あそこの隅に
unten am Tore 下の門の所に
draußen im Garten 表の廁に
droben im Himmel 上なる天に
nebenan in der Küche すぐ隣の炊事場で
abseits auf der Wiese 脇寄りの草原に
drüben auf dem Friedhof 向うの墓場に
drinnen im Zimmer 中の部屋に

一寸断わって置くが,日本語にはこういうバラバラの構造がないから,訳語はすべて「すぐ隣の炊事場で」なぞと,「の」という表現がしてあるが,そうかといって決して nebenan が in der Küche に「掛かっている」のではない。nebenan を in der Küche に「掛け」ようと思ったら,in der Küche nebenan と順序を反対にする。—– 以上はすべて二つの句の例だが,三つでも四つでも同じだ。

  hier nebenan im Zimmer meines Bruders  (ここの,隣の,私の兄弟の部屋に)

生徒 すると,必ず hier とか dort とかいったような,簡単な副詞が最初に来るのですか?

教師 そうとは限らない。何でも,まず漠然たる,広い方の場所規定を先にして,詳しい方の,具体的な概念の方を後にすればいいのだ。つまり,広い方からせまい方へと順々に規定して行くわけだ。

  in dem Walde unter einer alten Linde (森の中の,年老いた菩提樹の下に)

生徒 そういう風なのは,すべて,一つの句と見るのですか,それとも,その構造通り,二つの別々の句と見るのでしょうか。

教師 それはまあ,場合によっては多少の例外もあるが,まず普通は一個の分肢と見るのが妥当だろうね。それが証拠に,In dem Walde unter einer alten Linde war ein Brunnen. と,war の前に二つとも持って来るからね。In dem Walde war unter einer alten Linde ein Brunnen. とも言えない事はないが,前の方が普通だ。こういう構造を取る以上は,これはドイツ人の語感が両者を殆んど一つの「文肢」として感じている証拠だ。hierzulande なぞと一語に書くものさえある位だから,益益明瞭だろう。

生徒 先生はよく「文肢」とおっしゃいいますが,文肢というのは一たい何の事です。

教師 君が丁度疑問にしているその事さ。hier in der Stadt が一つか,二つかという疑問を起こした以上は,それはもう既に俺の言っている「文肢」という単位を根底にして考えているので,これがそもそも文章論の最も重要な基本概念の一つだ,文肢というのはつまり,ドイツ語でならば Satzglied と言うべきところだろうから,それを文字通り移して文肢と言ったのだ。

生徒 なるほど,何でもない当り前の事のようだが,こういう時にはかなり重要になってきますね。では一つその文肢という奴をはっきりさせて下さい。こういう時には,たとえ文章論の片鱗でも,かなり興味を以て研究できそうです。一文肢というものを定義するとしたら,どう言ったらいいでしょう。

教師 そうだねえ。まず「動詞を規定するもの」とでも言ったらよかろう。「掛かる」という言葉を使うとすれば,つまり動詞に掛かるものの事だね。

生徒 動詞を規定するものと言えば副詞だけじゃありませんか。

教師 そんな事があるものか。Wo wohnen Sie hier in der Stadt? といえば,文章の中心は動詞の wohnen (住んでいます)だ。それ以外のものはすべてこの動詞を「規定」しているのだ。「誰が?」「何処に?」「誰と?」「何故に?」「何時?」「どういう風に?」そうした色々な方面からの問に答えるのがこれが文肢だ。

生徒 どうも少し解らなくなりましたよ。私の習った文章論は,まず主語というものを一番大切なように言って,それから,その主語に他の色んなものが掛かるようになっていましたが,あれと先生のとは随分ちがいますね。

教師 それは古い文法だ。それはまだ文章論の基本概念のはっきりしない文法だ。では問うが Das Kind Spielt. (子供が遊ぶ)と das spielende Kind (遊ぶ子供)とはどう違う。

生徒 それは勿論 Das Kind spielt. は一つの文章ですが,das spielende Kind の方は単なる一個の文肢であるに過ぎないという点です。

教師 両方とも das Kind (子供が)という主語があるのに,どうして一方は文章になり,一方は文章にならないのだ。

生徒 それは……das spielende Kind (遊べる子供)の方には動詞がないからです。

教師 動詞はある。spielen というのは動詞だろう?

生徒 では,客語がないからです。 das spielende Kind までは言ってあるが,それが「どうしたか?」それが「どうであるか?」が言ってありません。つまり,主語の方はあるが,それを説明する「客語」の方がありません。客語のないものは文章じゃありません。

教師 では Sprich ! (語れ)というのはどうだ,これは文章じゃないのか?

生徒 そうなると何だかわからなくなりますね。では,こう言ってはどうでしょう。Das spielende Kind の方には「定動詞」(verbum finitum) がない。すなわち「人称変化した形の動詞がない」と言ってはどんなものでしょう。

教師 それで大分近くなって来た。けれどもそんな事はむしろ形式的すぎる。もっと理屈で肯首し得るような言い方はないものかね。

生徒 それより言い方がありません。先生ならどう言います。

教師 我輩ならこう言う。das spielende Kind の方は,名詞が基礎になっている。名詞が基礎になっているものは文章ではない。Das spielende spielt. の方は,動詞が基礎になっている。spielt が全体の基礎だ。要すれば das Kind なんてものは,無くったってその文法的意義に大した関係がないと言っていい位だ。

生徒 そんなものですかね。

教師 だってそうじゃないか。—– das spielende Kind は,いわば das Kind の一種だろう?

生徒 というのは?

教師 つまり全体の文章論的格位が問題になるのである以上, das spielende Kind や das schlafende Kind や das tanzende Kind なぞと同じ列に属すし,要するにdas …… Kind を土台にした諸種の Variationen に過ぎない。

生徒 なるほど,それで das spielende Kind はdas Kind の一種であるというわけですか。

教師 そうだ。もっとハッキリ言うと; das spielende Kind は Kind の一種であって spielen の一種ではない。

生徒 なるほどね。そして?

教師 くどいようだが,もう一つ例を述べておく。 der Mann dort (あすこにいる男)は der Mann の一種であって,dort の一種ではない。Keiserreich (帝国)は Reich (国)の一種であって Keiser の一種ではない。こういう場合,Reich を基礎であると言い,Keiser をその規定であると言う。基礎は規定によって詳しい内容を得るのだ。わかったか?

生徒 わかりました。すると Das Kind spielt. は何の一種です。

教師 それを俺の方から問いたい。Das Kind spielt. は何の一種だ。

生徒 spielt の一種……は何だか奇抜だし,そうかといって das Kind の一種では勿論なし……

教師 spielt の一種だというのがどうして奇抜かね。

生徒 だって何だか変じゃあまりせんか,そんな事を言っちゃあ。

教師 変だと言う奴の方がよっぽど変だ。Das Kind spielt. は spielt の一種だよ。Der Knabe spielt; das Mädchen spielt; その他色んな spielt がある,そのうちの一つの spielt だ。

生徒 少し話が変で得心がゆきかねますが……

教師 ここのところに気が付かなければ,そもそも文章なるものの本質と概念機構がわかる筈がない。では少し「意味」の方から押して行こう。(ここは意味と無関係な文章論的範疇の話をしているのだが,やむを得なければ意味に訴えることもできる)Das Kind spielt. は一つの文章だが,これを句に直すと,dass das Kind spielt (子供が遊ぶということ)または das Spielen des Kindes だ。後者は Spielen の一種か,Kind の一種か?

生徒 勿論 Spielen の一種です。

教師 それ見給え。 das Spielen des Kindes が Spielen の一種ならそれと同意の das Kind spielt. も spielt の一種だ。

生徒 ではそれは認めます。するとそれが何の証明になるのです。

教師 それが「文章の論理的,並びに形式的基礎は動詞である」という証明になるのだ。文章は動詞,(即ち大抵の場合動詞の定形 verbum finitum)を基礎にして,それに主語その他の「文肢」が規定として付いているのだ。

生徒 僕は今まで,主語が基礎で,動詞がそれを規定するのかと思っていましたが,その反対ですか。

教師 そんなことを言うから「基礎」という概念や「規定」という概念がむちゃくちゃになって,文章論的認識論が乱れてくるのだ。文章は必ず動詞を中心として考えるべきだ。動詞だけで既に文章だと言ったって差支えない。動詞が,いわば台のように根底に据えられている,その上へ他のいろんなものが載っかっているのだ。だから動詞は他の色んなものを自分の中へ併合してしまう傾向がある。ドイツ語でも nach Hause gehen (帰る)というのが,先ず nachhause gehen となり,今ではもう nachhausegehen という一つの分離動詞であるかの如き感を与えつつある……というよりは,むしろもう立派な分離動詞なのだ。そもそもすべての分離動詞が元来はそういう風にしてでき上ったのだ。それから出発すれば mitnachhausegehen (一緒に帰る,同道帰宅する)という動詞も可能だ。frölichmitnachhausegehen (嬉嬉として同道帰宅する)という動詞も可能だ。否,その他すべてのものを動詞の前綴にして,動詞一語だけをもって文章を構造するということも考えられる。現に火星の世界ではそういう言語を使っている。火星語は我輩もこれで三ヵ月ばかり研究しているが,変な言語でね,名詞や副詞や,いわんや主語とか何とかいったようなものは一切なくて,単語といえば動詞だけだ。そして一つの文章を一つの動詞で表現する。火星語を一つ教えてやろうか? peropukan という動詞がある。これを人称変化して peropukam と言うと,「私は市場へ行って一塊のパンと一塊のチーズを買って,それから友達のところへ寄って,せめて夜の十二時頃までには家に帰って来るつもりだ」という意味になる。不定形の perokupan というのは……

生徒 peropukan じゃありませんか?

教師 ああそうか,木星語と間違えていた。木星語とはよく似ているんでね。火星語の動詞不定形 peropukan は,ただそれだけでもって「市場へ行って一塊のパンと一塊のチーズとを買って,それから伯母さんの所へ寄って……

生徒 友達の所へ寄ってじゃありませんか?

教師 その友達が実は伯母さんなんだよ……それからせめて夜の十二時頃までに帰ってくるつもりだ」という意味を持っているんだ。

生徒 厄介な動詞なんですね。

教師 動詞が厄介な代りには,文章論はすこぶる簡単だ。副文章もへったくれもあったもんじゃない。一つの複雑な意味を持った動詞を,一人称なり六人称なりに人称変化してドカッと置けばそれでいいのだ。

生徒 火星には六人称というのがあるのですか。

教師 あるとも,半人称から八人称まである。おまえみたいな少し足りない男はみんな半人称で行くんだ。

生徒 およしなさいよ,馬鹿々々しい。結局それがどうしたと言うのです。

教師 ……ことほど左様に動詞は文章そのものなのであるという話だ。わかったか。

生徒 わかったようでもあり,わからないようでもあり,とにかくこうボヤッとした気持ですな。

教師 困ったね。けれども兎に角,文章の形式的な基礎ないし中心といったようなものが動詞であるということだけは解ったろう?

生徒 だって先生,時には動詞のない文章がありはしませんか。

教師 たとえば?

生徒 たとえば,Goethe の言葉としてよく引用される Politisch Lied, ein garstig Lied (政治の歌はいやな歌)なんて文句には,動詞はないが,それでも立派な文章でしょう?

教師 ほんとうに動詞が無いかね?では「政治の歌,及びいやな歌」という意味かい?

生徒 そうじゃありません,意味は勿論 Politisch Lied ist ein garstig Lied. という意味です。つまり ist が省かれているのです。

教師 無いものを省くことが出来るかね?

生徒 そう言えばそうですが。

教師 省いてあるというのが,むしろ如何に ist が当然すぎるものかということを証明していはしないかね?ist なんてものになると,たとえそれが無くっても,全体を一つの文章として考えんがためには,当然の解釈としてそれを基礎に据えて考えざるを得ない事程左様に ist は文章の重要な要素なんだ。いい加減なものだったら,省かれているとすら考える必要がないのかも知れない。それが無くては文章にならない事程左様に当然存在すべき筈のものであるが故に,省こうと思えば省けるのだ。

生徒 逆襲を喰っちまいましたね。ではまあそれはそれでいいとして置きましょう。文章の基礎は動詞にあり。それで?

教師 それで Das Kind spielt. が spielt の一種だということがわかる。Das Kind spielt. が spielt の一種だとすれば,spielt 即ち動詞が文章の基礎であって,das Kind は spielt をなお詳しく説明しているもの,すなわち「文肢」だ。主語は要するに一つの文肢なんだ。主語だって四格の目的語だって,動詞を規定する文肢であるという点では同じものだ。たとえば Das Kind spielt Auto. (子供が自動車ごっこしている)は,どんな Spielen であるかと言えば,まず das Autospielen 又は das Autospiel だ。もっと詳しく言うと das Autospiel des Kindes だ。das Autospiel des Kindes (子供の自動車ごっこ)なんていう「子供」もなければ「自動車」もない,そういう「遊び」があるのだ。即ち Spiel が全体の基礎であって,主語も目的語も,この一つの名詞を規定する「付加語」だ。すなわち das Autospiel des Kindes は一つの文肢であって,Auto と Kind とは両方とも文肢の核心たる Spiel を規定する規定句,即ち「付加語」なんだ。それに反して Das Kind spielt Auto. となると,全体が文章になって,Das Kind と Auto とは,文章の核心たる spielt を規定する「文肢」だ。—– 文章の中心は動詞であり,動詞は文肢によって規定せられ,文肢は付加語によって規定される,これが文章論の出立点でなければならぬ。

生徒 では主語とか何とか言うだようなものはどうなるのです。

教師 君はよっぽど主語が好きなんだねえ。主語や目的語や状況語なんてものは,これはまた文肢そのものを詳しく分解して,文肢の主な形態としては一体何々があるか?といったようにしてやって行くわけだ。

生徒 なるほど,文章論という奴は仲々厄介なものですな。—– けれども私たちは別に文法学者になりたいというのではなくて,ムヅカシイ「ドイツ語」をなるべく要領よく解りたいというのですから,そんな Methodologie (方法論)はまず後廻しとして,何かこう右から左へと役に立つような文章論はないものでしょうか。

教師 そんなものが簡単に覚えられるものか。そんなものは,全体を一時にやったって頭に入るわけのものじゃない。重要な公式を順々に,時日をかけて,追々にやって行くんだね。今日はまあ文章論概説としておこうじゃないか。

生徒 それもそうですが,しかし,先生の文章論の立場からして,何かこう,複雑な文章の意味がわかるようになる文章論的大方針といったようなものは生れて来ないでしょうか。

教師 生れて来るよ。俺の文章論はいわば「動詞中心的文章論」だ。verbizentrische Syntax かね。だから,文章の構造がわかるためには,主として動詞を研究しろということになる。

生徒 そういう事になりますね。

教師 動詞という奴は,それ自身がもう既に一つの文章だ。ただし,基礎だけあって,その上にはまだ何も載っかっていない文章だ。これに何等かの内容を盛らんがためには,勿論主語とか,目的語とか,その他色んなものを付けなければいけないのだが,然しそれに如何なる文肢が要るかという事は,あらかじめ動詞がこれを要求している。たとえば gibt とあれば,「誰が」「誰に」「何を」なんて,主要な文肢は gibt そのものが既に或種の引力を以て引っぱっている。これが schläft(眠っている)となれば,こんどはもう全然話がちがって,文章全体の構造,すなわち,それを規定する文肢が変ってしまう。「眠っている」のに,「誰に」「何を」なんて文肢は要りゃしない。—– 文章を読む時の要諦はここにあるので,一つの文の意味がよくわからなくて,全然見当がつかない,なんてのは,初学者の場合には,大抵動詞の重要さを忘れているのだ。たとえば(むつかしいぞ!)

Die Bedrücktheit des Publikums durch die Krise verlangt einen Ausgleich nicht durch grobe oder
abgefeimte Reize, sondern durch das Herausstellen des starken und unverbildeten Gefühls.

これが幾分わかるかい?

生徒 自慢するわけじゃありませんが……ちっとも解りません。

教師 第一単語で参っちゃうね。しかし何とかしてこれを早く解ろうとしたらどうする。

生徒 片っ端から単語を引いて仮名を振ることですな。

教師 上から順々にか?

生徒 まさか下からという訳にも行きませんから。

教師 それが馬鹿だと言うんだ。

生徒 どうしてです。

教師 我輩なら先ず動詞に注目するね。まず verlangt を検べる。verlangen は「要求する」という意味だ。それじゃあもう全体がパッと型になってわかってしまう。要求するという以上は「A が B を要求する」だ。それ以上何かあるとすれば「A が B を C から要求する」だ。しかし「C から」の「から」に当る von がどこにも見えないから,じゃあ要するに A が B を要求するきりの意味だとタカを括ってしまう。

生徒 それにしちゃ,いやに長いじゃありませんか。

教師 どんなに長くったって,verlangt 以外に,どこにも他の中心が無いから,頭っから安心して掛かって大丈夫だ。これが試験か何かで,どうしても検べが付かなかったら,俺だったら『要するに Die Berücktheit des Publikums durch die Krise が,何かこうゴテゴテした事を要求するという意味です』と書いて答案を出してしまうね。そうすりゃあ,まさか零点はつけられまい。文章論的認識の正確さに対して三十点ぐらいくれやしないかね。

生徒 そんなにはくれないでしょう。

教師 くれないかな。—– 要するに,そこまでわかってしまえば,それを土台にして,その関係を頭に置いて,こんどはおまえの言う通り上から下までズラッと仮名を振って行けば仮名の中途で大体の意味がわかってしまう。全体の文章論がはっきりしないで,いくら仮名を振ったって駄目だ,仮名がおまえを振ってしまう。仮名に振られて善光寺参りか。善光寺だか何だか知らんが,とにかく参ってしまうことだけは確実だ。

生徒 まったくですな。ゴテゴテしたものを,よく根気よく検べることがありますが,上をやっていると下がわからなくなり,下をやりだすと上にあった事を忘れるといったように,まるでいたちごっこみたいな事になって,遂にあきらめてごろんと引っくり返ったまま明る日の七時頃下宿のおばさんに起される事がよくあります。

教師 動詞というものに対する認識不足の罰だね。動詞さえよく検べれば,その辺の関係がすべてわかって,文章全体が何のことだか訳がわからないなんて事になる筈は決してないのだ。あっちを引いたりこっちを引いたりして苦心している暇があったら,その暇に動詞の使い方を詳しく辞典で研究して,さてそれから,その動詞のどの意味がこの場合なんだろうと,動詞を中心にして文肢をはっきりと画して行けば,どんな複雑な文だって,必ず或る程度まではわかるものだ。初歩はこれで行かなくっちゃあ駄目だ。これで押して行きさえすれば,或程度までは文章論なんてものは要りゃしない。

生徒 そういう風にして文章の「構造」がわかったからと言って必ずしも意味が取れるとは決まらないでしょうね。

教師 そりゃあそうだ。そういう風になれば,それからはまたそれからの文章論がある。けれども,文章の構造もわからずに,ただその辺の景色をウットリと眺め廻しながら意味を考えたりなんぞするよりは,意味は少々わからなくてもいいから,今までに述べた動詞とか文肢とか付加語とかいったようなものの形式的関係が画然と頭の中に築き上げられる方が,将来上達の望みがある。これは教鞭を取っているとよくわかることだ。二ヵ月たっても三ヵ月たっても,なかなかそういう形式が頭にはいらないで,語と語,句と句の「純文法的組み立て」の具合が頭に入らない人がよく見受けられる。そういう人はいくらやったって駄目だ。語学には向かない。どんなに単語を引いたって,どんなに睨めっくらしたって,結局何にもならない。そういう気の毒な人が随分いる。たちなんだね,つまり。

生徒 僕はどうでしょう。

教師 君はその点はなかなかしっかりしている。hier in der Stadt の in der Stadt が hier の「付加語」であると思い違いしたために「この町で」がどうもに落ちないで質問するなんてのは,まあ比較的頭のいい方だ。語学には向くかも知れないね。

生徒 (窓外の雲行を眺め,次に先生の顔を眺めて)えへへへへ。(幕)