警戒の Vor

教師 「あいつは方々で借金をしている」というのを独訳すると?

生徒 借金ってえのは何ですか?

教師 借金てえのは借りた金さ。

生徒 借りた金はわかってますよ。まさか借りねえ金を借金という奴もないでしょう。ドイツ語がわからないんですよ。

教師 Schulden さ。

生徒 何性ですか?

教師 性は女性だが,複数だ。

生徒 すると単数は die Schulden ですね?

教師 単数はない。

生徒 え?

教師 借金ということを die Schulden と複数で言うので,単数の die Schuld は普通は「罪」「責任」「責め」といったような,全然別な意味になる。

生徒 なるほど,ではこうですか。

  Er macht überall Schulden.

教師 それでは,あいつは方々で借金を「する」,という意味になってしまう。

生徒 そう仰言ったじゃありませんか。

教師 嘘を吐けえ!あいつは方々で借金を「している」と言ったはずだ。

生徒 「する」のと「している」のと同じでしょう?

教師 冗談を言っちゃあいけない。あいつは方々で借金を「する」と言えば,それはつまり,その男の「癖」を指すのだ。その男の性質に関する一般的宣言だ。「だから油断がならない」と付け足して見れば,益々意味がはっきりする。換言すれば,彼は方々で借金する人間だ,ということだ。

生徒 じゃあ,別に現在だとは言えないわけですね。

教師 そうだ,未来も現在も過去も,みんな込めてある。—– こういう一般的宣言には,ドイツ語でも何語でも,みんな「現在時称」を使う。だから,そういう意味だったら,君の言った通り,Er macht überall Schulden でよろしい。ところが,僕の出した問題の,「している」の方は,すっかり事実が違うだろう?彼は「現在」借金をしている,(現在という言葉にぼかされてはいけないよ)—– というのはつまり,今からしばらく前に借金をした,そのために現在借金がある,という事実を指しているのだ。人の所へ行って実際金を借りたというその動作は「過去」だが,現在その結果を背負っているという状態の点は「現在」だ。

生徒 わかりました!つまり所謂現在完了なるものですね。

  Er hat überall Schulden gemacht.

教師 そうだ!これを称して現在完了というのだ。hat …… gemacht (作った)という構造をよく考えて見たまえ。hat は「持つ」(haben) という動詞の「現在」だ。現在持っているんだからね。するだけして,後で持たずに済む借金なんてものはありゃしない。そんな便利な借金があったら僕もする。

生徒 僕もします。

教師 じゃ一緒にしよう。

生徒 先生が僕に百円お借りになる。僕が先生に百円借りる。そうすりゃあ二人とも借金を「持た」ずにすむ……

教師 馬鹿な事を言うな。—– 要するにだ。Er hat überall Schulden gemacht.(彼は方々で借金をした,彼は方々で借金をしている。)という現在完了の構造は,hat が「現在その結果を持っている」ことを意味し,gemacht が,「過去のある時日において(その時日は証文を出して見ればわかるが)借金をした」ことを意味するのだ。分解すれば,er 彼は überall 到る所で Schulden 借金を gemacht こしらえられた形で hat 持っている,だ。なんなら gemacht を除いて Er hat überall Schulden. でも意味は同じだ。「こしらえる」という動詞から考えると「過去」,「持つ」という動詞から考えると「現在」,—– この過去と現在との組み合せを称して「現在過去」もしくは「現在完了」と呼ぶことが出来る。どうだわかったか?

生徒 あんまりよく分りません。

教師 分らなければ一度借金してみろ。そうすりゃあ「おれは借金しちゃった!」という事をドイツ語ではどうして haben なんて助動詞の現在で言い表わすかというわけが,むしろ余りにも解りすぎるほど解って来る。現在完了なんてものを発明した男はよっぽど責任感の強い男だったのだろうな。

生徒 先生変なところに感心しちゃったものですなあ。じゃあ一つ僕が問題を出しますよ。「月末が来るたんびに俺はヒヤッとする」というのをドイツ語で言ってごらんなさい。

教師 ヒヤッとする……には一寸ヒヤッとするな。Es läuft mir kalt über den Rücken (それが私の背中を渡って冷たく走る)なんていう非人称句があるが,これはどうも少し大袈裟だしな。kalt (冷たく)の代りに eiskalt(氷の如く冷たく)とか eisig(氷の如く)とか言うと尚更話が大きくなるし……

生徒 はやくはやく。

教師 じゃあもう,いっその事「ヒヤッと」をあきらめて,全体をドイツ語らしくしよう。細部を捨てて大局を按ずるんだな。よし。

  Ich zittre vor jedem Monatsende.

生徒 七十点ですな。それじゃあ,私は各々の月末の前にふるえる。という事になってしまいます。

教師 いいじゃないか。各々の月の末の前にふるえちゃあいかんかね。

生徒 いかんですなあ。ふるえないで,ヒヤッとして貰いたいですな。

教師 利いた風の事を言うな。君にはこの大先生の作文がわからないのだろう。Es läuft mir eiskalt über den Rücken, so oft das Monatsende naht. (月末が近づくたびに,それが氷の如く冷たく私の背中を走る)とでも言えば感心するが,Ich zittre vor jedem Monatsende. では,あんまりすらっとしていて有難さが解らんのだろう。田舎者め!

生徒 そんなに憤慨しなくったっていいでしょう。

教師 第一貴様はこの我輩の名文の意味がわかるのか?

生徒 わかります。

教師 じゃ訳して見ろ。

生徒 私は各々の月末の前にふるえる。

教師 前というのは vor の事か?

生徒 そうです。

教師 前と言うのは,つまり何日前だ,つまり何日頃のことだ。

生徒 いずれ二十五六日頃のことだろうと思います。

教師 ちがう!

生徒 どうして。

教師 ちがう!間違ってる!Ganz falsch ! —– この場合の vor は,別に後とか先とか言う意味ではない。事実に忠実ならんがためには,むしろ何々に「対して」という意味だと言った方がいい。もっと形式的に言えば,zittern (ふるえる)という語は,「怖れる」という概念が付帯する際には vor という前置詞を「支配」する,というきりの話なんだ。それを「前」だの何だの,おまけに二十五六日頃だなんて思っている奴がこの大先生の名作文を云々する権利があるか?Woher nimmst du das Recht dazu ? どこからそんな権利をかっぱらって来やがった?

生徒 どうも相すみません。先生,ズボンのボタンが外れていますよ。—– で,その vor というのをもう少し詳しく説明して下さい。

教師 こういう vor を称して警戒の vor と呼ぶことが出来る。如何となれば,愕く,恐れる,警める,護る,救ける,尊敬する,敬遠する,逃げる等々々々……何でもよろしい,いやしくも何か多少警戒して掛からなければならない様な物騒な対象を前に控えて行われる動作には,すべてこの警戒の vor がつくのだ。

生徒 たとえば「この大先生の鼻息には一目を置く」といったような時ですな。

教師 そうだ。そういう時にはその「鼻息」に vor を付ける。Man tritt vor seinem Gelehrtenstolz ehrerbietig zurück. (彼の学者的うぬぼれの前には人は平伏して退きさがる)だ。

生徒 なるほどねえ。こんどは目前の事象に徴して実によくわかりました。あぶなくて側へも寄れない,寄れないから多少の距離を置いておく,たとえば先生がこうして僕の「前」に立っていらっしゃるように。そこで vor なんですね。

教師 そうだ。ではもうページ数もないから作文と行こう。まず「地震に対する恐怖」というのを作って見たまえ。

生徒 Die Furcht vor das Erdbeden. [エールト・ベーベン]

教師 vor dem Erdbeden だよ。警戒の vor は必ず三格支配だ。では「人は地震をおそれる」は?

生徒 Man fürchtet sich vor Erdbeben.

教師 「人は地震悪疫をおそれる」は?

生徒 Man fürchtet sich vor dem Erdbeben und der Epidemie. [エピデミー]

教師 いかん。それじゃあ,地震と悪疫とに限っておそれるが,津浪や火事は恐ろしくないと言ったようにきこえる。地震悪疫といえば,いわゆる「連語」だ。ややともすれば「二語一想」に近い連語や二語一想には冠詞はつけない。

生徒 はいはい,畏りました。では Man fürchtet sich vor Erdbebed und Epidemie.

教師 よし。では,「警察は泥坊よけにならぬ」は?

生徒 Die Polizei ist kein Schtzmittel vor den Dieben.

教師 馬鹿野郎,Schtzmittel (防衛手段)と Mittel(手段)という語を使ったなら gegen die Diebe だ。—– vor を使って見給え。

生徒 Die Polizei schützt uns nicht vor den Dieben.

教師 uns や den を入れるのは野暮だ。Die Polizei schützt nicht vor Dieben. でよろしい。スローガン的にやれば Polizei の冠詞も取って Polizei schützt nicht gegen Diebe. だ。

生徒 vor を使うとおっしゃったじゃありませんか。

教師 schützen の場合はどちらでもよさそうだ。では次,「あの男には注意したがいいぜ」は?

生徒 Nimm dich vor jenem Menschen in acht !

教師 jenem が少し変だねえ。「あの」と言うからといって必ず jener を使うとは限らない。この場合は diesem の方がいいね。どうしても「あの」という気持が出したければ,vor dem Menschen da と言い給え。では次,「召使がこの男に注意しろと言って彼を戒しめた」は?

生徒 Ein Dienstbote warnte ihn vor diesem Menschen.

教師 気が利いて間が抜けていない。

生徒 は?

教師 間が利いて気が抜けていないと言うんだよ。ではまたその次,「おまえは本当の真剣な問題はいつも忌避する」というのを訳すると?

生徒 忌避するというのは?

教師 ausweichen だね。こいつは単に三格,または vor を支配する。それとも極端に言おうとするなら desertieren (脱走する)とか ausreißen(同意)とか Reiß aus nehmen(同意)なぞも面白かろう。世界大戦中の流行語では sich drücken (「ずらかる」,すなわち逃げかくれする)なんてのがあるが,こいつは von etwas(何々から)というから vor を使う訳に行かない。Drückeberger(第一線を忌避して後方勤務に廻る奴)なんて言葉も出来ていた。

生徒 Vor dem eigentlichen, ersten Problem [プロブーム] weicht er immer aus.

教師 ……まあ満点をやろう。おい一寸待て,ボタンのズボンが外れているよ。