1. 十四才のときに決心

私のドイツ語苦心談がどれだけ参考になるかは疑問ですが,マア一席やってみましょう。

学 歴

まず身の上話から始めますが,私は皆さんのように正規に高等学校や大学を通ってきた人間ではなくて,中学を二年でよして(姫路中学ですが)それから大阪の地方幼年学校に入学,陸軍士官学校を卒業,見習士官と胸膜炎とに同時になって,少尉に任官したら早速休職を仰せつけられ,その次は型の如く「お前はやめろ」と来た。成績はそう悪い方ではなかったつもりですが,一ぺん胸膜炎なんてものをやってしまうと,陸軍大学はどうせ体格でペケにきまっている,陸軍大学が駄目なら軍人をやったって仕様がない……こう思って,二十一歳で方向転換をしたのです。

ええと,一寸申しおくれましたが,私の年齢は今年で五十……八だったかな?九だったかな?(どうも自分の年という奴は困るです,今年こそは断然覚えてやろうと思って年頭に断然覚える事もあるんですが,翌年になるとモウ違ってくるので,しょっちゅう頭の中で混乱して今日に及んでいます。五十八というのも,ひょっとすると二三年前に覚えたやつかも知れません。家内に訊くとわかることもあるんですが)。

ドイツ語は,実はその幼年学校で学んだのです。幼年学校の事なんぞ知ってる人は大してなかろうが,幼年学校では英語という奴は教えなかった。それは,士官学校へ行けばどうせ普通の中学で英語をやった連中がはいってくるから,少数の幼年学校出身者にだけは英語以外をやらせておくというわけなんでしょう。とにかく地方幼年学校では,ドイツ語班とフランス語班との二組になっていました(東京の中央幼年学校でその他になおロシヤ語班というのがありました)。競技などやる時には,いつもこの独仏両班が対抗するのですが,どういうわけか知らんが,どの幼年学校の話を聞いても,優勝するのは必ずドイツ班ときまっていたようです。こういう事を言うとフランス班の人達はむきになって怒るが,事実だから仕方がない。また,妙な事には,ドイツ班へ入ってくる男とフランス班へ入ってくる男とは,顔の感じがちがうんですな。士官学校で各幼年学校の者が集ってきたのち,私は大阪から来た者以外に関しては何も知らず,誰が仏班で誰が独班かということは,別に徽章をつけているわけでもないから,本当はわからない筈なのに,顔の感じだけで言いあてたことを記憶します。ちょいちょい間違うこともないではかったが,それでも十人について七八人まではピタリとあたりました。どう言うんでしょうかな?ドイツ語班へはいってきて der, des, dem, den とか gegangen とか何とかやっているうちに顏が段々 gegangen 式になって来るのか,それとも,ゲーテのいわゆる親和力といったような以心伝心的な相互吸引作用があって,「おれはドイツ語をやろう」,「おれはフランス語にしよう」と決定する瞬間に,ある種の顔(従って性格)の持主はどうしてもドイツ語乃至フランス語の方へ微妙に吸引されてしまうのでしょうか?—– これだけはいまだに不思議におもっています。

小生の顏はここに御紹介申しあげた通りですから,ドイツ顔というのはどんな顔かということは,これによってお察しをねがいます。若い時は顏中一杯無精ひげを生やしていましたが,終戦後は御時勢がニヤケて来たので,おれもニヤケなくちゃ不可んかなと思って,殆んど毎日ひげを剃ることにしましたが,時間がかかって弱ります。

どうしてドイツ語をえらんだか?これはどうも,全然無意識にやったことで,理由なんぞ覚えていません。察するところ,英語が第一でその次がドイツ語,などという,極く世間並な評価に従って,第一がないから第二にしたといったような,ごく無定見な考えだったのではないかと思います。それと,当時ドイツの陸軍は非常に有名だったからでしょう。なにしろ十四歳の小僧のことだから,無理もない話です。

十四歳で気がついたが,なるほど,この点私は非常に条件がよかったんですな。普通の人はみんな高等学校や大学へ行ってからドイツ語をはじめるのに,私はそれよりも数年前にはじめたのだから,これは何といっても一歩の長です。殊に十四五歳当時の数年という奴は,事語学に関る限り,非常に影響する所が大きい。語学と音楽だけは,とにかく早くはじめた者が得です。兎のように途中で昼寝さえしなければです。(私は二三度昼寝をしたことがあります,殊に二十三四歳頃,一時新劇に凝って,一二年の間ドイツ語のドの字も開けて見たことのない時期がありました,まさかドイツ語で飯を食うことになるとは思わなかったので……今の青山杉作君などといっしょに新劇の革新陣営をゴロゴロしていたのです。いまだって新劇はやりますよ,本当!嘘と思うならやって見せましょうか?その代り下手だぞ……)。

最初の苦心

さて,十四の時からはじめて,大阪地方幼年学校でどういう風にドイツ語をやったかという話に移りますが,こいつがなかなか厄介です。しかも,この最初の苦心をよくお話するということが一番大切ではないかと思います。というのは,これは現に当時わたしと一緒に同幼年校にいた連中が,(最高は中将,多くは少将または大佐程度で終戦になったと思いますが)まだおそらく三百人や四百人は生き残っているだろうから,わたしも嘘は言えず,また謙遜して嘘を言う必要もないから,自信を以て断言しますが,とにかく地方幼年校の三ヶ年在学中に,断然ドイツ語が出来出したことは事実なんで,しかもそれが或る種の異状な努力と熱中との賜であったことは,当時の学友がすべて認めてくれるだけではない,むしろ所謂る「ひとつばなし」になって今でも残っているはずです。とにかく驚異の的だったのです。自分からこんな事を言うのはおかしいが,嘘は大嫌いだから,笑われても構わないハッキリ威張っておきます,とにかく驚嘆されたものです。しかも —– ここが面白いのですが —– 自分ながら奇跡としか思えないのです。

努力と奇跡,奇跡と努力!これですな結局。若い時にやることが何か物になるとすれば,わたしはここじゃないかと思う。努力と奇跡,奇跡と努力! — 努力が奇跡を生む。そして奇跡が努力を生むのです。(前者は普通の修身講話になってしまうが,後者に注目していただきたい。そんな努力ができた筈はないと思うのですが,何かの奇跡で,とにかくやったものらしい)。

十四才のと
きに決心

どんな努力をしたかというと,一言にして言えば,つまり無謀きわまる事を企らんだのです。すなわち,ABC を教わり,発音の概略を会得し,やがて出るとか出んとか出すとかいう例の夫婦喧嘩みたいなところが終って,とにかく自分で辞書が引けるようになった頃だったと思います(何時頃だったかはハッキリ記憶しません,あるいは一年生の始めの頃,あるいは半ばだったかもしれません),語学以外は別に何一つむつかしい事もなし,ただドイツ語だけが全然新たな学科だったものですから,「よし,おれはこいつを物にしてやる!」と或る日決心したわけなんです。この決心には何のわけもない,いわゆる断言命令的・盲目的・無茶苦茶的・駄々ッ児の意地張り的・天降り的・その他いろんな的決心だったので,しかもこの決心をすると同時に,何だかドエライ者になったような気がして,同輩の顏を見渡しても,なんだか自分より二三級位の下の連中みたいな気がしたことをおぼえています。幼年校では上級生が下級生をなぐりに来るのは毎日の行事でしたが,最初は,何の理由もないのにボカボカなぐられると,くやしくて,夜消灯ラッパが鳴って床の中で一人きりになると,シクシク泣いたこともありましたが, この「よし,おれはドイツ語をやって見せる,おまえたちなんかどうだっていいんだ!」という挑戦的決心をしてひねくれてしまってからというものは,いくら殴られても口惜しくも何ともなくなりました。その代り,入学の当初は,しきりに父母がこいしくて,姫路ということを聞いただけでも,脱走して帰りたいほどセンチになったものですが,いったんこの決心をすると同時に,なんだか心が両親を離れたというのか,孝心が薄らいだというのか,だいいち親許へ手紙を書かなくなり,夜眠る前にすら故郷のことを考えなくなってしまいました。(当時上領という大尉の人が私たち十二期生の生徒監で,この人の人格は思いうかべただけでもなつかしくて涙が出るようですが,この人も私にこういう転機のあったことは恐らく御存じあるまいと思います。しかし,ある時この人に呼びつけられて,深夜十二時頃まで,おまえは近頃少しどうかしている,なにか悩みがあったら,今全部云ってしまえといって,やさしく諄々とさとされた事がありますが,私は,しまいには泣き出してしまったが,そんな決心をしたことだけは遂にいわなかった。最も崇拝する人であったにもかかわらず,どうしても言えなかったのです。言えば理由を問われる。ところが,理由というのは,前述の通り,何にもないので,ただ駄々児の意地張りで,しかもこの決心に居直って世の中を見ると,どいつもこいつも自分より以下に見えるという,とにかく理屈では言えない自己救済的決心だったので,そいつを,自分の最も崇拝する上領大尉殿に詳しくジロジロ見たり批評されたりするということが堪えられなかったのです。けれども同大尉にはまことにすまなかったので,二三時間一人きりで部屋の隅に立たされた後,一切の返事に代えて私は泣き出してしまいました。大尉は,口だけはきびしく「軍人が泣いたりしちゃいかん!」と言いましたが,顔は実にやさしい顔をして,小さな声で,「よし,もう好いから,かえって寝ろ」と言いました。私は外へ出てから,思い切って言ってしまおうかと考えましたが,しかし,そうすると,「同じ決心をするなら,ドイツ語なんて変なものに決心しないで,立派な軍人になる決心をしたらどうだ」と言われそうな気がしたので,そう言われると,軍人よりドイツ語の方が好いという理由はどうしても考えつかなかったのですから,悪いな,とは思ったが,そのまま寝てしまいました。(その後同大尉から私の父にあてて,関口は最近少し性質が変って,陰険になる徴候があるから注意されたいという手紙が来たそうです。それまでは淡白な児だったと見えます)。

十四五歳の少年でも,性格がすっかり変るほどの決心をすることがある,ということがこれでもわかりましょう。だから,少年が性質が変ったり,淡白でなくなったりしても,それをすぐ何か悪い事のように思うと間ちがいます。少年には,多情多感な,すこぶる危険な時代があるのです。私のは,生れてはじめて両親の膝下をはなれ,しかも厳しい幼年学校へはいり,上級生には毎日ボカボカ殴られ,箸の上げおろしまで一々文句を云われたので,入学当初の数ヶ月は,まるで世界が変ったような,しかもまだ親しくつき合って打ちとけ合う友人といっては一人もなし,そのままで行ったら,あるいはとんでもない不良になるか,あるいは親許へ逃げてかえって世間の物笑いになっていたかもしれないのです。この多情多感の危機を自から救おうとして噛りついたのが偶然ドイツ語だったわけです。たとえば,お灸をすえるとき,感じのにぶい人は平気で我慢できるでしょうが,感じの鋭い人は,何か,下っ腹に力を入れるとか,誰かの腕をギュッと握るとか,とにかく何かにしっかりつかまって渾身の力を拳に集中しないと,熱さに対抗できないでしょう。それと同じことです。私も,まるで横っ腹の一番くすぐったいところにお灸をすえられるような多情多感な少年時代の危機に対抗するために,何かに噛りつこうとしたのです。するとドイツ語が一番手近かにあったきりの話です。

若い人たちはこの話はわかってくれるでしょうな?